2013/01/07

環境汚染問題-チェリノブイリ原発事故


( 2013.04.25 )

● <チェルノブイリ>建物崩落、ずさん修理が招く…政府報告書


 旧ソ連・ウクライナのチェルノブイリ原子力発電所で今年2月に建物の一部が崩落した事故について、1986年の爆発事故後のずさんな修理と老朽化が原因とする報告書をウクライナ政府の事故調査委員会がまとめていたことがわかった。

 同時期に造られたシェルター(通称「石棺」)もコンクリートや鉄筋部分の腐食が進んでおり、同原発のクプニー元副所長は「石棺を含め(86年に爆発した)4号機の建物が非常に危険な状態にあることを示した」と指摘。 26日に史上最悪の放射能漏れ事故から27年を迎える施設が崩壊の危険に直面していると警告した。

 86年に爆発事故を起こした4号機は、同年秋に完成した石棺で覆われている。 この石棺に隣接するタービン建屋の屋根と壁の一部が今年2月12日、約600平方メートルにわたって崩落した。 今年の冬は例年より雪が多く、非常事態省は当初「雪の重みが原因」との見方を示していた。

 だが調査委はこの見方を撤回し、2月末にまとめた暫定報告書で「積雪は想定された許容量を超えなかった。幾つかのマイナス要因が重なって屋根の留め具が壊れた」と結論づけた。 タービン建屋の一部は86年の爆発で吹き飛ばされ、翌87年に造り直された。 修理箇所が建物に想定外の負荷をかけ腐食や稚拙な溶接が留め具の損壊につながった可能性があると分析している。  
 ウクライナ政府は石棺とタービン建屋の一部を覆う金属製の「新シェルター」を2015年に完成させ、その中で古い建物を解体する方針だが、クプニー元副所長は「完成が遅れれば(石棺を含め)建物損壊の可能性が高まる」と警告している。



(チェリノブイリ原発事故問題について)


● チェルノブイリ原子力発電所事故(ちぇるのぶいりげんしりょくはつでんしょじこ)

 1986年4月26日に、ソ連邦ウクライナ共和国の首都キエフ市の北方130キロメートルに位置するチェルノブイリ原子力発電所4号機で起こった20世紀最大、最悪の大事故。
 事故は典型的な「反応度附加事故」すなわち原子炉暴走事故であり、水蒸気爆発、水素爆発あるいは化学爆発が起こった。
 その結果3人の従業員が即死し、うち1人は遺体も収容できず、事故後につくられた事故炉を覆う「石棺」内にそのまま埋葬されている。

 爆発のため重量1600トンもあるコンクリートの上部生体遮蔽(しゃへい)盤が垂直に立ち上がり、それとともに圧力管と蒸気水分離器への鋼管との接合部が一斉に破断した。
 原子炉建屋上部は崩壊し、クレーンが落下して炉心を破壊した。 過剰反応度の加わった核燃料は、ばらばらになって飛び散り、タービン建屋、炉心上部など30か所で火災が発生した。

 すぐに駆けつけた消防士の決死の活躍で、翌朝までにこの火事はほぼ消し止められた。 しかしこの高放射線下の消火作業のため、消防士や作業員など200人あまりに急性の障害があらわれ、86年7月末までに31人が死亡した。
 チェルノブイリ事故の最大の特徴は、事故後に起こった炉心黒鉛の火災である。 通常の条件では発火しがたい黒鉛がなぜ火災を起こしたかについては、現在でも原因不明である。 しかし黒鉛は事故後も1986年5月1日ごろまで燃え続け、それとともに大量の放射性物質が上空1800メートルまで吹き上げられ、全ヨーロッパに広がった。

 一部は日本にまで到達し、フォール・アウト(放射性降下物)として観測された。 この火災を消すために軍用の重ヘリコプターを用いて、炉心上部へホウ素化合物、ドロマイト、砂、粘土、鉛など5000トンが投下されたが、あまり有効ではなかったようである。 結局、炉心黒鉛が燃えつきてから、しばらくして鎮火したものと推定されている。

1.チェルノブイリ原子炉の構造


 チェルノブイリ原子力発電所はRBMK‐1000型とよばれる黒鉛減速沸騰軽水冷却方式の電気出力100万キロワットの原子炉(黒鉛減速軽水冷却炉)6基を建設する計画で、4号機までが完成して運転中であった。
 5号機と6号機は80%ほど工事が進んでいたが、事故後に放棄された。 事故を起こした4号機は1983年12月に運転を開始したばかりの最新鋭機であった。 RBMK型は、1954年世界に先駆けて運転を開始したオブニンスク原子力発電所の流れをくむソ連独自の方式で、圧力容器のかわりに圧力管とよばれる金属パイプに核燃料体を入れ、それを黒鉛パイル中に貫通させて炉心を構成している。

 中性子経済がよく、炉を停止させずに燃料交換が可能なことなど多くの長所をもち、また大型の圧力容器の輸送をせずにすむことなど大陸国ソ連の国情に適していたために、ソ連では原子力発電の主流の地位を占めていた。 一方、短所としては原子炉の反応度の温度係数が正になりうること、熱応力が全金属構造物・燃料要素・黒鉛に蓄積しやすいこと、圧力管の数がきわめて多く、また炉心体積も大きいため、制御システムがきわめて複雑となることなどがあげられる。

2.事故の原因


 ソ連の国家原子力利用委員会は国際原子力機関(IAEA)の主催した専門家会議(1986年8月25日~29日、ウィーン)に事故報告書を提出した。 
 それによれば、事故当時、発電所ではタービン発電機の慣性力を利用して、停電時などに際してどれだけの非常用電力が得られるかを調べるための実験に熱中したあまり、禁止されていた原子炉の低出力領域で、ほとんどすべての安全装置を解除したままで実験を強行した。そのためBMK炉特有の正の温度係数領域に入ってしまい、緊急停止操作もまにあわず暴走(反応度附加事故)に至ったものとされている。

 RBMK炉の安全性に対する過信と、事故に結び付いた行為の危険性についての自覚がまったく欠如していたといえる。 ソ連では実験関係者を重大な規則違反の廉(かど)で裁判にかけ、最高10年の禁錮刑を含む厳しい判決が下された。 ソ連のIAEAへの報告書は、のちにIAEA事務総長の安全諮問機関であるINSAG(International Nuclear Safety Advisory Group)から、そのNo.1報告として公刊されたが、さらにその改訂版がINSAG‐No.7として公刊されている。

 しかし、1991年のソ連の崩壊後、困難な社会・経済事情のため、事故についての科学的究明の努力は部分的にしか行われておらず、黒鉛火災の原因・経過、その鎮火のメカニズムについてさえ明らかにはされていない。

3.原子炉の埋葬と周辺地帯の除染


 黒鉛火災の鎮火ののちも、毎日数千キュリーもの放射能放出が続いた。 放射能放出による被害を防ぐためには、事故炉をしかるべき構造物で覆うことが必要であった。 それが通称「石棺」とよばれるもので、まず建屋基礎の下にコンクリート片からなる人工的放熱層がつくられた。
 この工事のために全国から鉱山労働者が動員され、トンネルが掘られた。 事故炉の周辺は厚さ1メートル以上のコンクリート壁で囲まれ、屋根は太い鋼管を並べて葺(ふ)かれた。

 内部には各種のセンサー(温度、圧力、放射能レベルなど)が備えられて、専門家の立ち入りが可能なようになっている。 当初の設計では石棺の耐用年数は30年であったが、最近の調査では放射能の漏洩(ろうえい)なども目だち始め、その改修が必要とされている。改修の費用をヨーロッパ諸国が負担するかわりに、ウクライナはチェルノブイリ原子力発電所を2000年までに閉鎖するという話し合いが行われた。

 同国のエネルギー事情が悪いために閉鎖が実行されるかどうかは不透明であったが、2000年2月にウクライナの大統領レオニード・クチマが年内閉鎖を表明、先進7か国(G7)の総額3億ドル(約315億円)の経済支援をもって12月に全面閉鎖された。

 事故当時はソ連の威信をかけて隣接する原子炉の運転を継続することが決定されたので、25万人に達する軍隊が動員され、発電所周辺30キロメートル圏内の要所要所の放射能除染作業が強行された。

 それはブルドーザーなどで表土をはぎ取り、それを深い穴に埋める作業であった。 原子炉に通ずる主要な道路に沿った村落や、林などはすべて取り払われ「埋葬」された。
 これらの汚染除去や石棺の建設などは高放射線下の危険な労働であり、それに携わった人々は「リクビダータル」とよばれている。 ロシア語の「清算人」という意味から転じて、被曝(ひばく)した人と同じ意味に用いられている。 その総数は60万人と推定されているが、ソ連の崩壊という激動の時期とも重なって正確な数は不明である。

 発電所にもっとも近い従業員の居住地であったプリピアーチ市の全人口4万5000人は事故翌日の27日午後から全員強制退去させられた。 またチェルノブイリ市(当時人口1万6000人)を始め周辺30キロメートル以内に居住する住民、計11万2000人は数万台のトラックなどによって、すべて強制退去させられた。
 農家の家畜も一緒に移動した。 従業員はその後、発電所から50キロメートル東に離れた所に建設された新しい町「スラブチッチ」に居住し、そこから鉄道で通勤するようになった。 途中で二度乗り換え、そのたびに衣服や履物を交換する。 勤務は原則として2週間交替である。 移住した住民のなかには無断で元の住居に戻っている人もおり、当局もそれを黙認している。
 その数は30キロメートル圏内で数千人に達しているという。

4.放射能の拡散


 世界に最初に事故を報じたのは1500キロメートル離れたスウェーデンのフォルスマーク原子力発電所であった。 このことからも推測されるように、また放射能の放出が5月中旬に至るまで続いたこともあり、気象条件に支配されつつ、放射能はヨーロッパ全域に拡散した。
 放出された全放射能量は約10エクサベクレル(エクサは1018を示す。国際単位系の接頭語)=2.8億キュリーに達したと推定される。

 原子炉内にあったヨウ素の50~60%とセシウムの30~35%が、また希ガスはおそらく全量(6.3エクサベクレル)が放出されたと考えられている。 最大の放射能汚染を受けたのはチェルノブイリ原子力発電所のすぐ北に位置するベラルーシ共和国であり、全放出量の70%以上が同国に落下したのである。

 事故翌日の1986年4月27日および28日はベラルーシ全域は低気圧の影響下にあり、とくに28日には滝のような豪雨が降っていた。
 29日から5月6日にかけて、風はバルト海から南の方向へと変わり、5月8日からはまたチェルノブイリから北へと変化した。 このような4月26日から5月10日までの雨を含む気象条件がベラルーシの汚染を大きくした理由であった。

 セシウム137の濃度が1平方メートル当り37キロベクレル(これは1平方キロメートル当り1キュリーに相当する)以上の汚染地域がベラルーシでは全国土面積の23%に達している。
 これに対しウクライナでは5%、ロシアでは0.6%であった。 ベラルーシの汚染地域の面積は北海道のほぼ半分に相当し、そこに居住する人口は220万人で同国人口の5分の1に達している。

 1989年に公式に発表された汚染地域を示す地図は、三つの共和国の約2万5000平方キロメートル(四国の面積が約1万8000平方キロメートル)、2225居住地区が1平方メートル当り185キロベクレル(1平方キロメートル当り5キュリー)を超えるセシウム137の地表汚染を有することを示している。
 これらの地域では外部照射に基づく被曝線量だけでも年間4.38ミリシーベルトに達し、そこに住み続けたならば医学的検診が必要なレベルに達することになる。 この事故で短期および長期の放射線状況を支配している放射性核種は、ヨウ素(おもに131I)、セシウム(134Cs、137Cs)、ストロンチウム(おもに90Sr)、プルトニウム(239Pu、240Pu)の四つであり、そのほかに放射性の高い核燃料破片(ホットパーティクル)が放出された。

 これらの核種は地表から0~5センチメートルくらいの表層部に存在し、事故後10年経っても地中にほとんど浸透していない。したがって風などによって簡単に移動するなど対策を困難にしている。

5.健康への影響


 1991年IAEAの諮問委員会は、「住民に直接放射線被曝による健康障害はみられない」という報告を発表した。 しかし、これに対しては、ベラルーシ、ウクライナ両国の専門家から厳しい反論が出された。 事故から10年後の96年4月ウィーンで開かれたIAEA主催の国際会議でWHO(世界保健機関)の「チェルノブイリ事故の医学的影響に関する国際プロジェクト」の結果が発表された。
 それによると、子供の甲状腺癌(がん)がロシア、ベラルーシ、ウクライナ3国で著しく増加し、とくにベラルーシでは事故前に比べて30倍、汚染のひどい州では100倍に達し、また白血病が事故処理作業員の間では平均の2倍であるとされ、91年のIAEA報告はこの事実によって否定されたことになる。

 広島・長崎の被爆者には少なかった甲状腺癌の多発がとくに小児で顕著であることが確認された。 その原因が高レベルのヨウ素131の汚染とヨウ素欠乏地帯が重なった地帯に多発していることが証明されている。 事故の被災者の総数は710万人と報告されているが、従来グレーゾーンといわれてきた0.5~1シーベルトの範囲の低線量大量被曝者が多数を占めており、その医学的影響を明らかにするためには今後なお膨大な医学的・疫学的研究が必要となるであろう。