2010/08/05

足尾銅山鉱毒事件


【 足尾銅山鉱毒事件 】


1.鉱毒事件の概要
 足尾銅山は、1610年(一説には1550年)に発見され、まもなく幕府直轄の銅山として運営が開始された。開山当初300トンほどだった生産量は、1668年以降、一時1,500トンにまで増加。銅山は幕府の財政を支える重要な産業となり、足尾の町は、「足尾千軒」と表されるほどの発展を遂げる。
 
 幕末から明治初期にかけて、一時期の衰退はあったものの、1877年に古河財閥の祖であり実業家の古河市兵衛が経営に着手したことで、銅山は更なる発展を遂げることとなる。
 経営着手直後、幾本もの大鉱脈を掘り当てることに成功すると、産出量はわずか数年で当初の何十倍、何百倍にも膨れ上がり、ついには日本の銅生産量の1/4を誇る東アジア一の大銅山となった。

 1885年、渡良瀬川の鮎が大量死したことにより事件は表面化、直後、渡良瀬川から取水していた上流部1,200haの田畑が、鉱毒の影響で数年間収穫不能に陥る事態に見舞われてしまいました。
 鉱毒は銅の精製過程で排出されたもので、付近の環境に甚大な被害をあたえました。 
 そもそも、鉱毒は問題が表面化する以前から近隣の山々を蝕んでいたのでしょう。鉱毒の影響で上流部の山林は荒廃し、禿山となった土壌から大量の土砂が流出。土砂は下流部(現在の足利市あたり)に堆積し、大規模な天井川を形成します。
 天井川は大雨の度に氾濫し、田畑は広範囲にわたって鉱毒の海と化しました。
下流部の邑楽(おうら)地域では、明治から昭和30年頃までの約90年間に、35回もの洪水被害に見舞われたと記録にあります。中でも、明治23年、同29年に3度起こった大洪水は、各地に大きな被害を引き起こしました。

2.鉱毒による被害
(1610) 
 足尾銅山が発見されたと伝えられている。 これ以後、間もなく江戸幕府直轄の銅山となる。
(1700)
産銅は1,500tに達したが、その後急減し、年生産150tとなり、減少の一途をたどる。
(1817)
 銅山休止し廃山同様となる。
(1877)
 明治4年に民営となり、この年、古河市兵衛の経営するところとなる。(年産52t)
(1880)
 魚が浮死、栃木県令から魚類捕獲禁止令。
(1885)
 渡良瀬川の鮎が大量死したことにより事件は表面化。直後、渡良瀬川から取水していた上流部1,200haの田畑が、鉱毒の影響で数年間収穫不能に陥る事態に見舞われた。
(1889)
 電気製練法採用。亜硫酸ガス増大する。
 田中正造、足尾銅山鉱毒被害について帝国議会で質問。
(1890)
 大洪水発生、沿岸に鉱毒氾濫する。各町村で鉱毒反対の動きが表面化する。
(1891)
 群馬県議会、鉱毒防止の建議書可決。
(1896)
 大旱魃のあと大洪水あり、浸水家屋13,802戸。鉱業停止運動が活発になる。
(1897)
 被害農民800 人国会陳情, 被害農民集団行動をおこし憲兵出動。
 政府は銅山に鉱毒予防命令を出す。
(1898)
 被害農民1万人館林雲竜寺に集合。上京しようとして警官と衝突。
(1900)
 被害農民3,000人、請願上京途中、館林市川俣において警官隊に阻止、鎮圧される 。(川俣事件)
(1901)
 田中正造、鉱毒の窮状を直訴。(この頃、産銅量6,380t)
(1902)
 被害民上京。洪水予防のため、遊水池計画の閣議決定。
(1907)
 谷中村、強制破壊により廃村となる。
(大正時代)
 足尾銅山、コットレル電気集塵機採用、脱硫塩SO2増大。
(昭和10年代)
 足尾銅山浮遊選鉱法により、鉱さいは48メッシュ以下となり、鉱毒被害ひどくなる。
(1947)
 カスリン台風。沿岸市町村は鉱毒対策委員会を結成。県は実態調査を実施。
(1958)
 鉱泥堆積場の土堤決壊、多量の鉱毒が毛里田地区の苗代田に流入。
 毛里田村鉱毒根絶期成同盟会設立。
 三市三郡による渡良瀬川鉱害根絶期成同盟会結成。
(1959)
 水質調査指定水域について関係省庁に陳情、700人。
 水質保全法による調査水域に指定。
(1968)
 水質基準、銅0.06ppmと経企庁決定。
(1971)
 毛里田地区玄米から、カドミ米検出される。
(1972)
 古河鉱業へ、毛里田地区の銅の被害80年間の補償要求。
 土染法に銅が追加指定、125ppm以上。
(1974)
 土壌汚染対策地域360ha(銅)指定。総理府公害等調整委員会による毛里田地区の 損害賠償、15億5千万で成立。
(1976)
 古河鉱業との公害防止協定基本協定書締結。
 韮川地区の鉱毒根絶期成同盟会、古河鉱業との補償解決書に調印。
(1978)
 公害防止協定、協定細目書締結。
(1980)
 農用地の公害防止事業に係る費用負担計画の決定。
 3.鉱毒事件が残したもの
鉱毒ガスやそれによる酸性雨により足尾町(当時)近辺の山は禿山となった。木を失い土壌を喪失した土地は次々と崩れていった。 この崩壊は2009年現在も続いている。

 (2010.08.05)